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宮津の戦国時代

宮津市と言えば「天橋立」が有名ですが、戦国時代の史跡も多く、歴史ファンなら必見です!

江戸時代には、日本海を行き来する船が集まり、

 唄にもあるように、縞の財布が空になるまで散財し大変に賑わい

 丹後の玄関口の市街地には、古来海陸の交通の要であるとともに、歴史文化の中心地で

  裏町の細い小路、旧家、大小多くの社寺、花街の名残を漂わす千本格子に、思いはいつか遠い昔。

天正7年(1579)、織田信長の命を受けた明智光秀と細川藤孝が丹後に侵攻したことで一色氏は衰退し天正10年(1582)に滅亡します。

細川藤孝は丹後一国を与えられると居城を宮津城に定め、『本能寺の変』では盟友である明智光秀が謀反を起すと、豊臣秀吉に恭順の意を示す為、早々と隠居し家督を忠興に譲り、藤孝は田辺城に入ります。

慶長5年(1600)の『関が原の戦い』では、東軍に組した為、周囲の西軍1万5千の兵が田辺城が取り囲み50日に及ぶ籠城戦が繰り広げられました。

藤孝は後陽成天皇の仲介で命が助けられ丹波亀山城に幽閉されましたが、本戦である関が原で東軍が勝利し,人質だった

細川ガラシャ(明智光秀の三女)は自刃して東軍の士気を高め、嫡子忠興も戦功を上げた為、39万6千石の大身となり豊前中津に転封します。

代わって京極高知が丹後国12万3千石で入封、当初は田辺城に入城しましたが、宮津城の改修、拡張が終えると、居城とします。

宮津城

大手門と大手橋(宮津市・明治初期) 宮津城と城下をつないでいた大手橋と平櫓をのせる城門。明治維新後城郭はほとんど破壊された

町割

宮津の町割はかなり大掛かりな変更が加えられています。

特に廃藩置県の際、宮津城が取り壊されたことで、城周辺の町割については、わずかに残る遺構から推測する以外になく、

また、江戸期より積極的に埋立てが行われたことで、当時の海岸線を推測することも困難ですが、寺町周辺は比較的当時の町割が残っています。

宮津城本丸御殿

与謝野町にある愛宕神社本殿に、宮津城の本丸玄関が移築されています。

大政奉還後、取り壊してしまった宮津城の痕跡は、京極家の紋章が刻まれているので、それとわかるのですが遺るのは玄関のみで、奥は神社の本殿となっています。

宮津城太鼓門
宮津城石垣

武田氏と一色氏は、武田信栄が一色義貫を大和陣中で暗殺してその若狭守護職を得た。

また、『応仁の乱』では、一色氏が西軍、武田氏が東軍に分かれて戦い、その上、一色義直から没収された丹後守護職を一時武 田信賢に与えられたが、のち一色氏に返付されたなどの経緯があり、一色氏と武田氏は、互いに 強い不信感を抱く関係にあった。

さらに丹後と若狭は境を接しているため、両 氏の間には常に緊迫した情勢が続いており、何かきっかけがあるとただちに武力衝突につながっ た。こうした事情があり、武田氏の丹後出兵は幾度となく繰り返されていった。

丹後では、守護一色氏の権力は完全に失墜し、守護一色義有は丹後の国人衆を統制できなくなっていた。

丹後守護被官伊賀又次郎が竹野郡で反乱を起こした。

同年、もともと仲の悪かった丹後守護代の延永春信(府中)と丹後守護被官石川直経(加悦谷)が対立し合戦となった。

一色氏家臣同士の戦闘である。

更に、この内紛に便乗して、若狭の武田元信の軍が丹後に侵入し、丹後国は国錯乱と呼ばれほど激しい戦火が繰り返され、本格的な戦国時代に入った。

※石川氏は、加悦の安良山城を本拠地とする国衆で、幾地、滝、石川、亀山、金屋等、加悦谷一円に一族の城を持ち、支配域を広げていた。

丹後国初代守護満範からの有力被官として、在京奉行人や、若狭今富名代官、伊勢国守護代を出している。

守護勢力が弱体化した当時は、加悦谷の石川氏、宮津の小倉氏、久美浜の伊賀氏が、国の奉行として、丹後を三分割していた。

一方の延永氏は、国府、宮津の府中を本拠地とし、丹後守護一色氏の守護代を務めてきた。

丹後国で守護代として地位を保持しながら、次第に勢力を広げ、主家をも凌ぐほどに成長した。

天橋立智恩寺の多宝塔は、延永氏の残した遺産である。

しかし、1497年、一色五郎を殺害し内乱を起こし、また丹後水軍を率いて、若狭国を攻撃している。

【一色氏(いっしきうじ)】

清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む日本の氏族。足利氏の支族である武家

足利泰氏の子・一色公深を祖とする。三河国吉良荘一色(現・愛知県西尾市一色町)を本貫として、一色氏を名乗った。異音異姓に一色田(いっしきだ)がある。

当初は九州探題として筑前に下っていたが、後に畿内周辺に戻り若狭国・丹後国・伊勢国・志摩国・三河・尾張国2郡(知多郡・海東郡)5ヶ国2郡の大守護になった。また室町幕府においては侍所の所司を勤め、足利一門であることから四職の筆頭として将軍家に重用された。

  丹後一色家一覧
盛林寺

『盛林寺』

上宮津城主、小倉播磨守の菩提寺として天正5年(1577)宮津大久保谷に創建された。

開山は趙室宋栢(ちょうしつそうはく)和尚、それをたすけた小倉氏は、丹後守護一色家の重臣であった。

小倉氏は、天正6年10月、細川氏に敗れて滅んだ。

細川氏は天正8年8月、丹後の大名として入国、宮津城をつくり、盛林寺はその庇護をうけ、盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは慶長八年(1603)で、場所は現在地の南に隣接する「寺谷」であった。

盛林寺
大久保山(大窪)城跡

城主は小倉播磨守、或いはその配下野村将監という。

小倉氏は丹後守護職一色氏の在地の上級の被官であり、かつて大久保山下に小倉氏菩提寺盛林寺があった。

『弓木城』

稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。

【弓木城跡】

【一色稲荷社】

​【一色義清自刃の処】

織田信長の丹後攻め以降、丹後は細川藤孝・忠興親子が治めることになります。
宮津城を築いた細川氏はもともと丹後を治めていた室町幕府の守護だった一色氏の当主義清を暗殺し、丹後の統治権を確立します。

一色義清の最期の地とされるのは、宮津城 三の丸に位置する一色稲荷社。

天正十年九月、一色氏最後の当主十代義俊・十一代義清が、いずれも細川藤孝・忠興の父子に亡ぼされた。

義俊は同九月八日、宮津の細川館へまねかれて謀殺され、つぎの義清は同九月廿八日、義俊亡きあとの一戦によって細川本陣へ最後の斬りこみをかけ、川ほとりの伏兵にさまたげられて、ついに本望をとげぬまま、その川下の漁家の蔭に入って自匁しはてた。その後この地域に京極氏が築城のとき、一色家亡霊をなぐさめるべく小社をたて、これをその後一色稲荷とつたえたもので、この宮津を中心にした丹後興亡の歴史を物語る。

歴代宮津藩主

【宮津藩の「永井尚長」と山王宮日吉神社】

12月14日は、赤穂義士の討ち入りの日ですが、赤穂藩主浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件に端を発した話ですが、つながりのある話がこの地宮津にもあります。

宮津藩の永井尚長は、山王宮日吉神社に漱玉亭という別荘をつくり、芸術を楽しんだ風流人でしたが、徳川家綱の葬儀の際、江戸増上寺で警備の問題で、志摩藩主内藤忠勝と揉めたそうです。

それが元で内藤忠勝は永井尚長を討ったのですが、喧嘩両成敗ということで両家とも取り潰されてしまいました。

 

その21年後、浅野内匠頭が刃傷事件を起こしますが、浅野内匠頭の叔父が内藤忠勝だったそうです。

ちなみに、浅野内匠頭が事件を起こしたのは、将軍綱吉の生母桂昌院が従一位(皇族以外の女性では初)の朝廷からの使者を迎える席でのことだったと言われています。

桂昌院は、その後宮津藩主となる本荘家の遠祖になるそうです。

山王宮日吉神社

【宮津藩主本荘上菩提寺 大頂寺】

大頂寺は京極高知により慶長11年(1606年)に建てられました。浄土宗の寺で御本尊を阿弥陀如来としており、丹後与謝霊場第十八番札所となっています。

本堂の北側の一室では、徳川家康公から六代将軍の家宣公までの御位牌を祀っています。 

その他、徳川五代将軍綱吉公直筆掛け軸など、貴重な史料を数多く常設展示しています。

代々城主は、徳川将軍家の御位牌を奉納する習わしで、その際に徳川家御霊家を建て、2代、3代将軍の宝筐印塔3基(境内に現存)を建立した。

江戸中期の宝暦9年(1759)、本荘資昌が国替えにより藩主として浜松から宮津城に入城した。

本荘家は3代将軍家光の側室、5代将軍綱吉の生母である桂昌院が遠祖で、徳川将軍家とは姻戚関係にあった。

大頂寺は、京極高広が宮津藩主になるにあたり、東照大権現宮家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光御法楽のため、現在の地、金屋谷に引き移し、明治維新まで歴代宮津藩主の菩提所となった寺である。

本荘資昌は、代々城主の菩提寺の大頂寺に本荘家御霊屋を造り、桂昌院の念持仏や本荘家歴代の位牌を安置した。

このような歴史を有する大頂寺には、徳川家由来の文化財が存在する。

宮津城はもともと、丹後守護だった一色氏が戦国時代に築城したと日本城郭大系にあります。

しかし、この一色氏は付近の八幡山城に本拠を構えていたので、当時の宮津城は支城もしくは、平時の居館といったものだったと思われます。

最後の宮津藩主本荘家は、桂昌院(五代将軍綱吉の生母)の生家であったため、徳川将軍家とは姻戚関係にあたり、大頂寺に日光東照宮を小さくした御霊屋を造りそこには、桂昌院の位牌や、桂昌院が大奥で朝夕にお念仏を唱えていた念持仏(信仰仏) 、本荘家歴代城主の位牌が祀られています。

内部は天井から床まで黒漆塗りで荘厳に仕上げられ、飾り金具には本荘家の家紋、継ぎ九つ目が打ち出されています。

違い大根は桂昌院が大奥で使った紋で、本庄家の女紋、御霊屋の隣には、本荘家ゆかりの品々が展示されています。

【大頂寺本堂・御霊屋】

【徳川家御霊家 2代、3代将軍の宝筐印塔3基】

【本荘宗秀・宗武の墓】        宮津藩最後の藩主 本荘氏六代宗秀、七代宗武の墓地で2基の墓標と旧城内 二の丸より移した石橋が残っている。

【智源寺】

智源寺の創建は寛永2年(1625)、初代宮津藩主京極高広が母親の菩提を弔う為、心庵盛悦善師を招いて開山したのが始まりとされます。

法名の惣寺院殿松渓智源大禅定尼から寺号を智源寺とし藩主京極家縁の寺院として寺運が隆盛し、領内曹洞宗の僧録同として末寺67ヵ寺を擁しました。京極家が移封後も歴代宮津藩から庇護され文化9年(1811)には当時の藩主本荘宗発より聖観音菩薩立像が奉納されています。現在の本堂は寛政9年(1797)の火災後の文化元年(1804)に再建されたもので、天井画は円山応挙十哲の1人が描いた花鳥図の傑作とされています。

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