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宮津と細川家とのつながり

1579年に、織田信長の命により、細川藤孝・細川忠興・明智光秀らは丹後守護だった建部山城を攻めて一色義道を自害に追い込んだ。

1580年、長岡家単独で丹後国に信仰するが、守護・一色満信の反撃にあい失敗するも、明智光秀の加勢を得て丹後南部を平定。

細川藤孝は織田信長の裁定により、丹後南半国(加佐郡・与謝野郡)の領有を丹後一国を与えられると居城を宮津城に定め、そして先の八幡山城から平城である宮津へ本拠を動かしたとされます。

細川氏(幽斎・忠興)は、天正八年(1580)八月宮津に入り、急いで浜手新城、更に城下の建設を進めた。

1581年9月には、明智光秀の仲介で、一色家の家督を継いでいた一色義定(一色満信)に細川藤孝は長女・伊也を嫁がせた。

朝倉征伐・甲斐の武田征伐には、一色義定(一色満信)も細川家と共に出陣している。

1582年、『本能寺の変』が起こると、親戚でもあり盟友であった明智光秀からの協力要請を断り、細川藤孝(49歳)は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居し、家督と宮津城を摘男・細川忠興に譲り、明智光秀の娘である細川珠(玉・玉子)を幽閉した。

京を制圧し安土城へ入った明智光秀だったが、朝廷工作で新政権を作る間もなく、毛利輝元と早々に和睦して中国大返しで戻ってきた秀吉と『山崎の戦い』で敗れ、敗走中に落ち武者狩りに討たれ、明智一族は滅亡します。

慶長5年(1600)忠興が会津上杉氏征討に出陣中、大阪方は丹後に兵をむけたので、幽斎は宮津城を自焼して田辺(舞鶴)に移り、田辺城には小野木重次(福知山城主)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭、他にも家臣だけを派遣した武将としては岡城主・中川秀成、豊後・高田城主である竹中重利らの手勢も含まれる。

このように西軍15000人の大軍に包囲され田辺城の戦いになったが、正室・沼田麝香も具足をつけて戦うなど、細川幽斎が指揮する籠城戦は50日にも繰り広げられました。

しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智親王はついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、『関ケ原の戦い』の2日前の9月13日に勅命により講和となった。

結果的に、西軍15000人は田辺城に釘付けとなり、9月15日の『関ケ原の戦い』の本戦に間に合わず、徳川家康が勝利することになる。

小野木重次(福知山城主)は撤退したが、ほどなく細川忠興・木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城し、細川忠興によって自刃させられ、首は京都三条河原に曝された。

藤孝は後陽成天皇の仲介で命が助けられ丹波亀山城に幽閉され、人質となった細川ガラシャ(明智光秀の三女)は自刃して東軍の士気を高め、本戦である関が原で東軍が勝利し、また嫡子忠興も戦功を上げた為、39万6千石の大身となり豊前中津に転封します。

【勘左衛門小路】 

  『関ヶ原の戦い』の際に、宮津城主 細川忠興がほとんどの兵を連れ、城を離れていた隙に丹後に攻め込んでくるのを知り、留守の城を守る細川藤孝(幽斎)は、わずかの兵のため宮津城を焼き払い田辺城への籠城を決意し、その田辺へ戻る際、漁師達が人や荷物を送り届けたことで、その褒美として宮津での漁業権を授けられ、その漁師の中に特別に海までの「みち」をもらいうけた者が勘左衛門で、この道が「勘左衛門小路」と呼ばれるようになった由縁であると、伝えられています。

細川・明智・吉田 三家の結びつき

・永禄11年(1568)   足利義昭 織田信長の岐阜城に入る。「奏者」秀光と「使者」藤孝が尽力する

              織田信長が入京(9月)後、光秀は京都の市政を担当する

・元亀元年(1570)       信長 浅井・朝倉を攻める

・元亀2年9月            信長 比叡山を焼き討ちし、この結果、秀光は近江国滋賀群を拝領し、坂本を本拠地にする

                京都と坂本を管轄  吉田兼見が秀光と親交を結ぶ 

・天正元年(1573)      7月に細川藤孝が織田信長から「桂川西地」を与えられ長岡と改姓する

             8月浅井・朝倉氏が滅亡し、織田信長から江北を秀吉に与える

・天正2年(1574)      正月に織田信長が細川家と明智家が「縁家」になるように命じる。

            信長にて「秀光を西国政称とする」と宣言。

・天正3年から7年     秀光は細川氏とともに丹波・丹後へ出陣、そのほか紀伊・大和・摂津・播磨などへも出陣する

・天正7年(1579)  7月 秀光は波多野氏を制圧し兄弟を安土へ送る

           10月までに秀光は丹波・丹後を平定し終える

           10月 吉田兼見が秀光のいる丹波へ旅

           12月 荒木氏の妻女や家臣、その家族、従者を信長が成敗する。前代未聞の「夥しき御成敗」

・天正6・7年        藤孝は三条西公園にて茶会を行う。「京都所司代」は次第に前田玄以に移行する

・天正8年正月          兼和は安土へ

           7月 忠興は、信長から丹後12万石を与えられて、8月に入国する

細川忠興は戦上手で冷徹な政治家 

・大変な戦上手で知られ、それとともに気の短さでも有名であった。

・茶道四祖伝書の中で「天下一気の短い人物」と書かれており、また丹後平定に際しては明智光秀から「降伏してくる

 者を無闇に殺してはならぬ」と諭されている。

・同族に対しても非常な冷酷さを持っており、本能寺の変後、妹の婿であった一色義定(義有)を宮津城にて殺害した 

 時には、妹伊也から切りつけられて、この時の鼻の傷はその後一生残ったという。

・一色家につながる僧侶を大徳寺で殺害し、弟までも追い打ちをかけ殺害するという事件を起こしている。                                              

・関ヶ原では人質に取られるのを避けるために妻ガラシャを自害させ、同様に自害を命じたにもかかわらず妻を逃した嫡

 男細川忠隆(長岡休無)を廃嫡している。  

 また、よく知られた話では、細川忠興は明智珠(玉子)の美しさにみとれた植木職人を手打ちにしたという話もある

細川・明智家系図

忠興・玉子の婚姻

・天正2年に織田信長の命令で細川家と明智家が「縁家」となるために細川忠興と明智玉子が婚約

・天正6年(1578)8月青龍寺城で婚姻、そのとき数えで夫婦共に16歳であった。 
信長の書状 『光秀の智謀をほめ、西国を平定したならば数か国を宛がう。藤孝は忠義を守り、文武兼備、忠興は器量も秀で、志も抜群 「ゆくゆくは、武門の棟梁」ともなるべき人物。両家は「隣国」であるとともに「剛勇」でも並んでいる』

            

・天正7年に玉子に長女長が、翌年天正8年には長男忠隆が産まれる。

・天正9年 織田信長の京での馬揃え、光秀は奉行。

     4月12日細川藤孝・忠興の招きで光秀とともに里村紹巴が宮津で天橋立を遊覧し連歌と茶を楽しんだ

     5月  細川藤孝の娘伊也(弥)が一色義定に嫁す

                この年、明智光秀・細川父子ともに領地統治に努力を傾ける 

玉子は永禄6年(1563)明智光秀の三女として生を受け、忠興の妻が戦国の世の悲劇の女性、又敬虔なカトリック教徒として知られる細川ガラシャ(玉子)です

16歳で父の盟友細川藤孝の長子忠興に入嫁、天正8年(1580)細川親子の丹後入国に伴い宮津入りをしました。

その2年後、『本能寺の変』により逆臣の娘として忠興に離縁されます。

ガラシャは洗礼名で、丹後にいた時は、まだその入信以前であるので、細川珠(玉・玉子)夫人で「丹後七姫伝説」の一人に彼女も挙げられている。

この地こそ生涯を変えた、特に精神的に宗教的に飛躍的に向上させ、細川珠(玉・玉子)をキリスト教の入信へと変えていく地であったと思われる。

細川珠(玉・玉子)が丹後へやってくるときは、まだ宮津城もない時代で、智源寺の西側の裏山にあった大久保(大窪)城にいたといわれる。

細川珠(玉・玉子)の立場が微妙になってくる、負ければ逆臣の娘、もし光秀が天下を維持できれば天下人の娘である。

 

天正10年(1582)、細川忠興とともに宮津大窪城にいたその妻お珠の方は、いうまでもなく明智光秀の娘で、この三年前に主人織田信長の声がかりで忠興と結婚したが、この年の六月二日は、「本能寺の変」があり、その月の十七日には大久保(大窪)城ですでに父の首を目の前にすることになるお珠。

しかも世は早くも父の同僚秀吉の手ににぎられ、細川一家はひたすら秀吉の目をおそれ、忠興もお珠の方をどこかえ押しこめ、父の叛逆につゝしみの生活をさせねばならぬ思いである。

明智光秀の死、母のいる坂本城の落城を知らされ、細川珠(玉・玉子)は2歳の子を残し、ごくわずかの警固の者を伴って、人知れず大久保(大窪)城を出て世屋川を遡り、山を越えて、現在京丹後市の「味土野(みどの)」へ入った。

かくてえらばれたのがこの「味土野」で、2、3の附人とともにお珠の方は四ケ年ほども苦しい閉居をよぎなくされた。

後に復縁して大坂玉造にある細川屋敷へ移り住みます。

しかし、大坂へ移った後も宮津で子供を産むなど、丹後国主の妻としてこの地との行き来はあり、また領地丹後におけるカトリックの布教を計画していたことも知られており、玉子はこの地に深い愛情を持っていたことがわかります。

玉子は慶長5年(1600)の関ケ原合戦に先立ち、敵将石田三成の人質となるのを拒み、玉造の屋敷に火を放ちその生涯を終えますが、戦国武将の妻として、明智光秀の娘であるが故に辿った数奇な運命、カトリック教義への傾倒と信仰を守り抜いたその生涯は、当時布教のために日本に訪れていた宣教師達の手をへて、遠くヨーロッパの地でも紹介されています。

細川忠興・ガラシャ夫妻と宮津との関わりについて

宮津城主・細川忠興とガラシャ夫妻が新婚時代を過ごした宮津。

共に織田信長に仕えた細川藤孝(幽斎)と明智光秀の両武将を父に持つ2人は、信長の命で天正6(1578)年に結婚し翌年には長女も生まれた。

「親同士が信長に仕える盟友で、丹後丹波の平定で活躍し親戚関係が良好で、安定していたのが大きな要因」で円満な夫婦関係でした。

『本能寺の変』の後にガラシャは細川家により味土野(京丹後市)に幽閉されたが、次男も生まれていて何らかの行き来があったと思われる。

また、2人の絆について、「(豊臣秀吉によるバテレン追放令で)キリシタンへの迫害が強まる中、忠興はガラシャの信仰を認め、葬式もキリスト教のしきたりに従っていった」と、妻への深い愛情があったように思われる。

・天正12年(1584) 豊臣秀吉が再婚を許し、玉子は宮津城へ戻る。

・天正14年     玉子 宮津で三男忠利を生む、藤孝は在京料として3000石を与えられる

           8月 秀吉が九州征伐の動員を発令する

夫の留守中、大坂の細川邸から玉子は教会へ    

※『「いとも品格があり、才幹に恵まれた」領主夫人であったが、心の中には仏教の教えに対する「躊躇」や「疑問」が次々と生じていたので、「彼女の霊魂は深い疑惑と暗闇に陥っていた」』フロイス日本史より
※「多くの疑問を修道士に持ち出し、さらに霊魂不滅性、その他の問題についても禅宗の幾多の権威をふりかざして反論を試みた」のちにコスメ修道士は、過去18年間これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女姓と話したことはなかったと伝えている    

清原いとが洗礼を受け、ついで細川邸内でいと(マリア)から授洗し玉子の内面・外面に大きな変化があらわれていく。 

玉子の遺言

(霜・おく 2人の女房に対して残した遺言)

「子供のことは、私のために子であれば、忠興のためにも子であるから、改めて言うには及ばない。

三宅藤兵衛を頼りにしている、この上言わずもがなのことながら、側室「藤」を正室代わりにされることはないように」 『於しも覚書』

・キリスト教の教えにガラシャは「一夫一婦制」を正しい家族制度と認識していた。

『細川家記』では、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。

【ガラシャ】のとはキリスト教に改宗した際に付けられた洗礼名であることは知られていますが、細川ガラシャは、(1563~1600)は、明智光秀の三女で、細川忠興の正室で本名は「たま(珠/玉)」で、「玉」⇒「たまわる」で神の恩恵を「たまわる」から来ていて、スペイン語の"Gracia"あるいはラテン語の"gratia"で、「恩恵・恵み」の意味を持っています。

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  イメージクリップ /song 『花』長島政記

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